学習塾のCMで「あなたのやる気スイッチみつけます」といったようなうたい文句がありました。
これを見たとき、非常に優れたCMだなあ、と思ったものでした。
学習にせよ部活にせよ、より理解しやすいように、より身につくように、まわりは様々な工夫をします。
しかし最後のところは、本人のやる気に大きく左右されてしまうのです。やる気というものは最も勝敗を分けるもの、と言っても過言ではありません。
ここではその「やる気」つまり「モチベーション」について考えてみたいと思います。
目次
部活でのコーチの考え方とその結果
以前に中学生の部活のコーチをしていた時、とある子の指導について、別のコーチと論争になりました。
私としては、その子が一番楽しめる事をやってほしい。そのスポーツそのものを好きになって欲しい。そう思って指導していました。
しかし別のコーチは、規律を守らせる事を重んじました。組織としての規律と厳しさを教える、それが自分の務めである、と堅く信じ込んでいるようでした。
スポーツのコーチには往々にしてこういう「人生の師」であるかのように振る舞う人がまぎれこんでいます。
その人の人生が立派だからそれを教えるように請われているわけでもなんでもなく、スポーツの力を買われてそれを教えて欲しいと請われているのに。
こうやって、組織だの規律だの人生だの、厳しさばかり植え付けようとするコーチというのがちょいちょいいます。
結果、どうなるか。
冒頭の子がどうなったか。
・・・その後部活を辞めました。えぇ、見事に。
人生の師かのように振る舞ったコーチは見事に、その子のやる気スイッチを完全にOFFにしたわけです。その子の人生における可能性を1つ、潰しました。
しかし悲しい事に、潰したものは見えないのです。本人は自覚さえ無いことでしょう。辞めていった子のせいとだけ考えて。
こういう「とにかく厳しくするのが良い」と思っている人は一定数います。
「まわりが厳しくしてやらなければ、甘えてしまう」と言うのですが・・・本当ですか?
結局のところまわりからの厳しさに耐えられる人は、元々自分に厳しかったりします。さもコーチや監督が自分の指導のおかげのように言っている裏で、その個人が相当に厳しい研鑽を自ら積んで来た成果なだけ、という事も少なくありません。
そしてその厳しさに耐えるその原動力こそが「やる気」、モチベーションです。
例えばそのスポーツの楽しさに目覚めたり。勝つ喜びを味わったり。そういったモチベーションを得て、苦しいトレーニングも耐え抜いていくのです。
ですから、特にまだ年齢の浅い頃、とはいえそろそろ自分でも判断できる小学校高学年から中学いっぱいくらいまでは、コーチにはモチベーションを上げることが最も求められると思っています。
上げにくく下げやすいモチベーション
部活でも仕事でも「厳しくてなんぼ」という人はいます。
そういう人にあえて「厳しいの反対を精一杯やってみてください」と言いたいです。
「厳しい」の反対はなんですか?「楽しい」?
指導をする立場で、楽しいようにやるって、実際に何をしますか?
何をしても許す?本人のやりたいようにやらせる?
誰でもなんの苦痛も感じないくらいに短く終わらせる?
・・・実はそれってみな、指導者は「何もやっていない」のですよ。「厳しい」の反対の「楽しい」をしているのではなく、ただの放置に近付いているだけです。
指導者であれば指導、つまり目的に導かなければなりませんが、この方向に「楽しい」という状態で持って行くというのは、実は全然簡単な事ではありません。
そしてこれこそがまさに、モチベーションを上げる、やる気スイッチを探して押す、という事に直結するのです。
「楽しい」と「ただの怠惰」が混同されているから、「楽しい」を否定してしまうのでしょう。それは正しくありません。
極端に厳しくすれば、やる気をくじく、モチベーションを下げる事は簡単です。
しかし上記のように、やる気を導く、モチベーションを上げる事は、全く簡単なことではないのです。
つまり、モチベーションは下がりやすく上げにくい、と言うことができます。
モチベーションを下げることの罪
これまで書いてきたように、モチベーションというのは上げるのが大変です。
と、いうことは、苦労して上げたものを簡単に踏みにじって下げることが可能、と言う事を意味します。
そのため、モチベーションを下げることは、考えている以上に罪深いことなのです。
「誰かに影響されてモチベーションが下がるようではダメだ」なんて意見もあるでしょう。
でもこれもまた、「モチベーションは上がりにくいのに下げるのはたやすい」という本質を見ていません。
モチベーションを下げた人が、その相手を失敗させたいなら、それは成功であり理にかなった行動でしょう。
でも、そうでないならば。
導きたいのであれば、モチベーションを下げる事がもたらす良い事など、何もありません。
「誰かに影響されてモチベーションが下がるようではダメだ」なんて他責思考でしかなく、自分がしたマイナスの行動を開き直って相手のせいにしているだけです。
確かに、逆境にも耐え抜いて頑張っていくからこそ、成功があります。
「今は辛いから頑張れない」と言ってしまう人は、ずっと頑張ることはできません。辛くない時は頑張る必要がありませんので。
辛い時でも、辛い時こそ、頑張る必要がある。
・・・だからこそ。モチベーションこそが大事なわけです。
頑張らせる為に必要な事は、より辛い環境に追い込む事では全くありません。状況を悪くしてどうするのか。
どうせ不可避な辛いことがあるならば、それに打ち克てるだけのポジティブなモチベーションをどうやって持たせるか。
これこそが、必要な指導というものでしょう。
モチベーションクラッシャーが壊していくもの
他者のモチベーションを平気で壊していく、モチベーションクラッシャー。
会社組織の中などにこういった人がいると、影響は非常に大きく伝搬していきかねません。
そもそもこれまで説明してきたように、モチベーションというのはあまりにも重要なものです。
それを易々と下げる時点で「いないほうがマシ」という状態なくらいにマイナスを生み出してしまっているわけで、何を目指してそれをやるのか、となります。
しかし残念な事に他人のモチベーションというのは直接見ることができません。
無用にモチベーションを下げるような人は大抵の場合ひどく鈍感で、自分の言動によって他人のモチベーションがどれほど下がったか、自覚することができません。
そのため、それによってどれほどのマイナスが伝搬していくかも、理解することができないのです。
この盲目っぷりもまた、モチベーションクラッシャーの恐ろしいところです。
極めて重要なものを易々と壊す感性をしていますから、他の重要なものでも怖しかねない要素に満ちているのです。いわば「ひどく粗野」な状態です。
そのために、もともと下げなくてもいいモチベーションを無用に下げ、下げた挙句に「そんなんで下がるような人間はなってない」といった論調を張り、更なるモチベーションの低下を引き起こすのです。
根底に他責思考がありますから、この論調は留まる事が無く、人が流出していっても「辞めた人が悪い」で終わりです。
もしそこに自ら辛い状況を耐え抜ける屈強な人がいたとしても。
屈強な人はモチベーションクラッシャーがモチベーションを下げてきても自らの力で立て直す事が可能ですが、「その余計な奴がいなければもっと力を発揮できた」という事実は変わらないのです。
優れた人が自らの力で挽回したとしても、であればなおのこと、そんな優れた人に水を差したモチベーションクラッシャーは万死に値します。
屈強ではない人は、モチベーションを下げられた上にそれを自分のせいにまでされますから、もうやってられません。続々と逃げていきます。
逃げないような人もそれはそれで問題です。モチベーションが下がった状態でずっとそこにいますから、バリューはどんどん低下していきます。
そしてこのモチベーションクラッシャーの影響を一番受けない人は「元々やる気が無い人」です。
こうして、鈍感なモチベーションクラッシャーのまわりは「やる気が落ちたけど逃げもしない人」と「元々やる気が無い人」で満たされていきます。
こうなればもはや組織が腐っていっていると言ってよい状態で、よい業績など望むべくもないでしょう。モチベーションクラッシャーが振りまく他責思考のオマケ付きです。
モチベーションクラッシャーは組織クラッシャー
モチベーションクラッシャーは、組織を内側から崩壊に導く、恐ろしい汚染源です。
他人のモチベーションを下げるような言動は厳に戒めて、少しでも皆がモチベーションを上げていけるような事を考え、実行していきましょう。
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