よく言われるセリフに「ビジネスは遊びではない」というものがあります。
当たり前と言えばそれまでかもしれませんが、この言葉は必ずしもただ区分けをするために出てくるわけではありません。
こういったセリフが出てくる背景には往々にして、ビジネスではより厳粛であることを貴ぶ風潮があり、私語を慎むなど就業規則にもあるような当然なものから、笑顔、笑うことさえを一切禁ずるようなものまで、組織により人により非常に多くあります。
厳粛である事を求める場合、同時に組織を優先する事も強く求めるものです。
組織と個人においては圧倒的に組織が優先され、「私情を挟むな」の言葉の元に、個人はいかなる抑圧でも受けて当然、という考え方まであります。
しかし、それが本当に組織として、ビジネスとしてのアウトプットを最大化するでしょうか?
ここでは、組織と個人のバランスについて、書いてみたいと思います。
目次
組織が厳粛さを求めた背景
厳粛である事が、必ずしも間違っているとは思いません。
そうなるには理解できるだけの事情がある、と考えます。
それは、統制を強く保つこと。
なんらかの行動を取ろうという時、各人の動きがてんでバラバラであっては、上手く動けません。
チームスポーツが分かりやすい例で、特にリアルタイムに連動する要素が強いサッカーやバスケットボールでは、各人がそれぞれバラバラに動いては行動がかぶってしまったりむしろ意図が異なったりして、チームとして力を発揮することはできません。
「チームとしての意思」を統一する事によって、例えば「ここは右サイドから攻める」といったような意思が統一され、高度な連携が働くのです。
古今東西の戦闘においても同様で、強い軍隊というものは非常に優れた統制を持っています。「軍隊式」と揶揄されるほど厳しいトレーニングが物語るように、あくまでも上官の命令が絶対であり、全体組織としての行動が絶対のものになります。
ところが、チームスポーツや軍隊においても、個人としての判断や行動はすべて不要かと言えば、まったくそんな事はありません。
サッカーでもバスケでも、局面をもっとも細かい部分まで切り取れば、そこでプレイしているのは選手それぞれ個人です。ボールを持ったその人に、その瞬間は委ねられているわけです。
チームとしてサポートすることはできます。いわゆるオフザボールの動きで、相手ディフェンスを牽制して、味方が楽にプレイするように、といった事は行われます。
しかしオフザボールの動きがどれほど優れていても、肝心要のボールを持った人のドリブルやシュートのスキルが極めて低かったら、どうか。これでは結局のところ、勝つことはできません。
個人技というものが全く存在しないわけではなく、局面によっては、明確に個人技を求めるのです。
軍隊でさえも、これは同じです。
状況がいつも想定通りとは限らず、混戦に陥るような事だって当然あります。
戦場において、最後の判断は常に各個人になるのです。命令が絶対のもの、軍規違反は死刑もありうる重大なものであっても、他方、個人の突破力が欲しい時だって当然あるわけです。
大事なことはその判断や結果であって、状況に応じるものです。
より上官の判断を仰げれば仰ぐことが当然だったとしても、毎度毎度そんな事をしていたら、ごくわずかな戦機を逃してしまう事もあります。
最終的な決断を、現場でしなければならない事だってあるのです。
極めて高い組織力を持つ日本の、欠点
日本は昔から、非常に高い組織力を持つ、と言われています。
島国だからでしょうか、調和を貴ぶ文化があり、個人として目立つことは禁じられ、組織としての和を強く求められます。
例えばサッカーなどのスポーツにおいてもチームとしての規律は最優先され、個人技に走るような選手は、その個人技がどれほど優れているものでも、チームからは排除されたりします。
しかし、まさにこれこそが日本の弱点にもなっているのです。
個人技が優れているのであれば、その結果が良いものであれば、それは本来は「勝つ」という目的に沿っているはずなのです。
ところが日本においては、結果が良かったとしても個人技に走るものは嫌う風潮があります。
これでは、まるで目的が「調和を保つこと」そのものであるかのようです。
目的はあくまでも「試合に勝つこと」であるはずなのに、調和を保つことは、時として本来の目的よりも重視されるのです。
その風潮は、ビジネスにおいても同様で、教育段階からして、個人技を忌み嫌う感覚があります。
各個人にはあくまでも歯車である事を求め、そこから飛び出て個人で動くような人は、その個人技が素晴らしくチームの結果さえ上回ったとしてもなお、排除されるのです。
昨今の新卒社員の評価で「自分から率先して動かない、覇気が無い」と言われることもあります。
これが何故かと考えた時に、当然としか言いようがありません。教育段階から入念にそのように飛び出る個人は排除するのが日本の教育なのですから、個人で突破していくような人が残る可能性は低くなっていくのです。
何故こうなったのか、を考えた時、とても雑な推論ではありますが「高度経済成長とバブル景気」があったのではないか、と思わずにはいられません。
国民みなが儲かった時代、変なことをしなければ順当に上手くいくような好景気の中では、ただその歯車に従う事を求めます。
年功序列も理にかなった話で、誰であっても上手くいくような好景気ですから、順番に待遇や役職が上がっていくことこそが平等な待遇で、裏を返せば誰であってもそれなりに頑張って過ごしていればいつか必ず利益にありつけるのであれば、文句も出ません。
こうやって、ただでさえ島国で和を貴ぶ人間性の日本人は、更なる協調性重視に傾いたのではないでしょうか。
加えて、高度経済成長で世界トップレベルの経済力を持つに至った中で自分たちのやり方を過信し、まさに慢心をもって「これが正しい」と思いこんでいるのではないでしょうか
バブル崩壊後は「誰がやっても上手くいく」とは到底言えませんから、特にその中のベンチャーにおいては人手も無いため個人で突破していく人材を求め、しかしその人材がいない、と嘆いている前述の言葉に繋がるのだと思います。
結果として、失われた20年と言われるほどの不景気を招き、その出口さえ見えないのではないでしょうか。
私はマクロ経済に詳しいわけでもありませんので、この推論は乱暴に過ぎるかもしれません。
しかし、少なくとも現状を見るに、これまでの日本のやり方、いま「当たり前」と思っていることが十分ではないことだけは、間違いの無いことでしょう。
「個」の無い組織など存在しない
企業という組織において個人は、軽視、あるいは無視されがちです。
しかし、「人のいない組織」など存在するでしょうか?少なくともこれを執筆している現在では、ロボットだけでまわっていくような組織など、まだ存在していないはずです。
「組織」というものは細かくバラしていけば必ずやその根底に「個」があるのです。
企業においても同様で、それぞれ細分化していけば必ずや「個人」がいるのです。
確かに、一個人の事情を優先などすればてんでバラバラになって、大きな損害を被ることだってあります。
一個人に比べれば、その他多くの個人の集合体である組織を重視するのは、人の量の重みからして当然でしょう。
しかしそれはあくまでも「比較して重い」ということが忘れられてはいないでしょうか?
「だから個人は無視していい」にはなるわけがありません。優先順位として、より多くの個人たる組織があればそちらが優先されるものの、そうやっていつでも必ず対立しているわけではないのです。
「個人を顧みることなど必要ない」という考え方は、そういった加減やケースバイケースという事を無視した極端な考え方に過ぎないと思います。
組織は各「個人」で出来ている以上は、個人というものはできうる限りで尊重すべき対象なのです。
経営者の孤独と、経営者の資質
経営者は、孤独だと言われます。
よく話に出される究極の決断で、「トロッコ問題」というものがあります。
これは、トロッコが暴走していて、その先に5人がいる線路と1人がいる線路があり、それを切り替えるスイッチを自分が動かせる、という状況のことです。
経営者はこういった場合に常に、決断しなければなりません。
もし「より多くを助けるために」1人の方にトロッコを向ければ、その1人を見捨てた冷たい人間になります。
ひょっとしてその1人が非常に重要な人だった場合、5人の側にトロッコを向ける可能性もあります。そうなれば、人でなしのように言われたりもします。
あるいはもしどちらも死なせたくない思いで迷ってしまって何もしなければ、1人であれ5人であれ誰かが死んでしまい、「何もしなかった決断ができない人」という烙印と誹りを受けます。
つまり、どれを選んでも叩かれる、という辛い状況の中で、これは例としての表現ではありますが、誰かを死に追いやるような決断でもしなければならないのです。
批判することは実に簡単ですが、この重責を担って決断し、実行した責任も背負ってやっていくということは、果てしなく辛いことです。
メンバー層からはこういった経営者の実態が見えないが故に、経営者をただ批判したりしがちであり、経営者やそこに近いレイヤーの層では「経営者は孤独」と言って、そういった決断もしていかなければならない非情さを持たねばならない、と思っているのです。
・・・・が、しかし、ここで少し待ってください。
確かに、時として過酷な決断をする事は必要です。
が、その過酷さを「感じない」必要は、どこかにありますか?
誰かを死においやったとして、その死をもし、全くなんとも思わない人だったら、どうでしょうか?そこに重責や辛さなど、ありましたか?
実はありません。
これが現代における「経営者の資質」が少しズレてしまう所で、確かに重責を担って決断すること、背負っていくことはとてつもなく大変なことですが、だからといって「鈍感だからそこをなんとも思わない、気付きさえしない」という人が、資質があるわけではないのです。
ところが資質の高い人などそういませんから、厳しい状況に勝ち抜ける人・・・・というより、「ザ・鈍感力」でそもそも厳しさを感じない人が、実は経営者の資質があると言われる人の多くを占めている、と思います。
「感じて耐えて実行できること」と「感じないから耐える必要もなく実行できること」には、大きな隔たりがあります。
後者は結局のところただのサイコパスにも通ずるほどの鈍感であって、決断力はある意味で申し分ない反面、優れた資質を持つとは到底言い難いものがあるのです。
こういった人も含まれて「経営者とはこういうもの」となっているために余計に、批判されたり、やっきになって鈍感力を開き直ることまで、様々な混乱を生んでいます。
そして鈍感な経営者がのさばれば、「個人の感情」を完全に無視してしまう、無視というよりは最初から見えていないので本人の気付かぬまま踏みにじる、という事も起きてしまうのです。
これは、ロスでしかありません。
そしてこの問題はもちろん経営者だけではなく、決断をするような立場の管理職にも当てはまります。
個人の感情
人間であれば、必ずや感情があります。
それはもはや人間が人間たる根幹を半分は担っているようなものであって、個人的な強さによって個人の感情に耐えられたりはしても、無くすことはできません。
あくまでも鈍感か繊細か、センサーの部分で個人差があるだけで、感情は誰しもあります。
そして先の「トロッコ問題」においても、登場する7人には、それぞれ感情があるのです。
仮にここでは、企業における管理職や経営者などの決裁者が1人のほうにトロッコを向けたとしましょう。
向けられた1人は、もちろん悲しい感情、場合によっては怒りなど、様々に感じるでしょう。決裁者や残る5人に思い入れがあれば、自ら犠牲になろう、という潔い人かもしれません。
残される5人ももちろん、感情があります。
助かった安堵もありますが、亡くなった人に対して思うところもあるでしょう。信頼が無いような場合、決裁者に対して「この人はひょっとしたらこちらにトロッコを向けたんだろうか?」という疑念も湧くかもしれません。
決裁者にももちろん、感情があります。
どれを選んでも誰かに恨まれるような決断をした苦しさ、ひょっとしたら違う選択をすればよかったのかなという悔悟、亡くなった人への申し訳なさ、など。
それぞれにそれぞれの感情がありますが・・・・・でもここで、鈍感な人と繊細な人がそれぞれ決裁者であった場合に実際にどうなるか、シュミレートしてみましょう。
まず鈍感な決裁者です。
迷わず1人のほうにトロッコを向けます。そっちのほうが損害が少ないと見れば当然のことです。
当然のことですから、1人が死ぬのもなんとも思いません。だってトロッコ暴走させたの自分じゃないし。
5人に対しても、別段助けた感覚もありません。1人がいなくなるより5人いなくなったら困るんだよ。1人減っちゃったんだから、残った5人は6人分働いてくれよ、と思ってます。
向けられた1人は、さも当然に向けられた事に愕然とします。
恨みの一言でも、死の間際に放つかもしれません。そしてきっとそれは、残される5人にも聞こえます。
残された5人は、助かった事に安堵しつつも、平然と1人の死を選んだ決裁者に、愕然とします。
もしこの先、この決裁者1人と自分達5人を秤にかけて決裁者が選べば、迷う暇もなく5人のほうにトロッコを送るでしょう。
1人の死の衝撃だけでなく、その先にうっすらと自分たちの死が見え、それをなんとも思わない決裁者におののきます。
と、このような流れになれば、5人としては気が気ではありませんし、決裁者に対して信頼が芽生えるわけもないでしょう。その後も頑張るわけがありません。
他方、もし繊細な決裁者だったら。
トロッコをどちらに向けるか、悩みに悩んで苦しんだ挙句に、涙しながら、1人に対して全力で謝りながら、5人のために1人のほうに向けます。
向けられた1人も、その苦渋の決断の苦渋っぷりを見ていたわけですから、自分の命がそれほど軽視されたとも思わず、最後は潔く諦めるかもしれません。残される5人に「後は頼んだ」と伝えるかもしれません。
残された5人は、その決裁者の苦しみぶりも見ていましたし、亡くなった1人の最期も見ています。
なんとかしてその1人も救いたくてもがいて迷って苦しんだ決裁者に対して、慰めたりもするかもしれません。
そして決裁者も含めて残った6人は、1人の死を悼み、それをフォローできるよう、協力して前を向いていくのです。
同じ決断と、同じ行動です。
しかし「感情」によって、こうまで結果の先が変わっていくのです。
・・・都合よく作られたストーリー?もちろんそうです。
しかし、鈍感な決裁者というのは、必ずしもリーダーとしての資質が高いのではありません。
そして、個人の感情はとても大切なものなのです。
士気というもの
軍隊には「士気」というものがあります。
これは極めて重要なものであり、士気が崩壊すれば軍隊は瓦解しますので、トレーニングによる体力や技術よりも最後は大切であったりします。
典型的な例が、アフガニスタンの軍と、ウクライナの軍です。
アフガニスタンは米軍が撤退するや否や、自分達に十分な武器弾薬があったにも関わらず次々に逃亡したりし、あっという間に壊滅しました。
それに対してウクライナは非常に高い士気でもって、粘り強く戦っています。
士気というのは、感情そのものです。
ウクライナの人たちは国を想う力が極めて強く、それが高い士気に繋がっていて、ロシア軍の想定を上回るほどの効果を生み出しています。
ハイテクな兵器が支配するこの2020年代の戦闘においても、士気が重要ということにはなんらかわりがないのです。
よく訓練された屈強な兵士は、士気が低下しないように鍛え抜かれています。
特殊部隊の兵士などであれば、絶望的な場所で個人であっても、士気を保って逃亡せず戦い抜けます。
ですが、そんな屈強な兵士はごくごく一握りであって、大半をしめる軍人には、それぞれに揺らぐ感情があるのです。
会社においてなど、もっとそうです。
時に「そんな弱いやつはだめだ、厳しい環境で鍛えて強くならないとだめだ」などと言っていたりしますが、その会社の構成員は、選び抜かれた精鋭を時間をかけて育て上げるような屈強な兵士なのですか?
ごく一般的な兵士、なんなら他から逃げて来た兵士かもしれないようなレベルに対して、特殊部隊の精鋭レベルを求めていませんか?
これは、正しいやり方とは言えません。
離職率が高い会社などは烏合の衆の寄せ集めと言っていい、軍隊に例えれば、職業軍人ではなくその場で徴用した一般兵の状態です。
そこで、精鋭の特殊部隊のトレーニングを課し、それを当たり前に求めますか?そんなことをしたら、誰も残りません。士気が崩壊するからです。
その士気で重要なものはまさに「個人の感情」です。
前に挙げた繊細な決裁者の例を見てください。
その結果のところ、6人で一致団結した状態がまさに「士気が上がった状態」です。
逆に鈍感な決裁者において、残った5人も疑念と不安を募らせるような状態、これこそがまさに「士気が下がった状態」です。
残念ながら現実はゲームとは違い、「士気」というパラメータを見ることはできません。
鈍感な決裁者であればなおのこと、どこかに小さく「士気」と書いてあっても、そんなものは見もしないかもしれません。
ですがその見えない各個人の感情とその集合体は、実は組織を支える根底なのです。
ですから、そこに鈍感であることは、組織にとってなんのプラスにもなりません。
個人の感情は、無下にしてはいけない
他のより多くの感情があるから、その個人の感情が優先されないだけであって。
他のより多くの感情との対立が無ければ、「個人の感情」は優先されるべきものなのです。
言い換えれば、君主の「徳」や「仁」とも言えるかもしれません。
優れたリーダーとなるためには、鈍感力よりも、個人の感情を酌み取れるだけの繊細さと、そしてその繊細さからくる様々な厳しいインプットに耐えられるだけの精神力を磨いていくべきです。
そして、人のモチベーションを意味も無く無駄に下げるような行為は、厳に戒めていく。
これこそが、組織の出力を最大化できる方向なのです。
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(※編集部注:本コラムは執筆者の個人の考えによるものです。当サイト・運営会社の見解ではありませんので、予めご了承ください。)
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